ヴィクトールは、朝のトレーニングの真っ最中だった。
今日も早起きは気持ちいい。そう思いながら朝の街を走る。
小鳥はさえずっているし、朝日は眩しい。
首輪抜けをして脱走してきたとおぼしきむく犬が、公園のなかに駆け込んでいく。
あれは三丁目の田中さんちのポチ。
つかまえて家に連れ戻してやろう。そう思ったヴィクトールはランニングを中止してちいさな公園に入る。
「おい、ぽ…」
そこでヴィクトールは立ちすくんだ。
公園には先客がいたのだ。
いかにも学校指定なえんじ色のジャージ。白の三本線が入っている。
そしてなぜか紅白帽をかぶった、少年と青年の中間位の男。
彼は公園の錆びた鉄棒の前に立っている。
そして一大決心をしたように、鉄棒を握る。
「……」
落ちる。
ヴィクトールはあわてて駆け寄った。
もう、ポチのことなど忘れ去ってしまう。
「大丈夫か?」
「あー、はあ。すみません。いえ、怪我はありませんよ。」
突然現れたヴィクトールに少し驚いた顔をしたが、彼はほっぺに砂をつけたままで呑気に笑った。
いかにもジャージが着慣れていない文系の優男だ。
「なにをしているんだ?こんな所で。こんな朝早くに。」
「え、いえ。おかまいなく。」
「いや、かまうだろう。また落っこちて、頭でも打ったら大変だ。」
そしてこの様子だとまた落ちるぞ、と付け加えようとしたが、さすがにそれはしなかった。
「鉄棒の練習か?」
ヴィクトールは公園備え付けの鉄棒をちらりと眺める。
「え、ええ。まあ…」
「俺が手伝おうか?」
「え?」
「ああ、いきなりで驚いたか?すまん。俺は、ヴィクトール。怪しい者じゃない。スモルニイ学園大学部の体育学科に所属している。学生証も見るか?」
「はあ。」
ヴィクトールが律儀に差し出した学生証を、彼もまた真面目に受け取ってじっくりと見る。
「あ、私はルヴァです。同じ、スモルニイ学園の高等部です。」
そう言って、ルヴァも傍のカバンから生徒手帳を差し出した。
「うん。確かに。」
ヴィクトールもそれをまじまじと見つめた。
「で、自己紹介が済んだところで。俺が手伝えることはないか?ルヴァさん。」
「ルヴァでいいですよー。ヴィクトールさん。」
「じゃ、俺もヴィクトールでいい。で、なにをやっていたんだ?」
「あの…」
ルヴァは恥ずかしそうにうつむく。
「笑いませんか?」
「何を。」
「私…さかあがりができないんです。」
「っ!!」
ヴィクトールは笑いこそしなかったものの、驚いて思わず仰け反ってしまった。
まさか、高校生にもなってさかあがりができないとは。
「ヴィクトールは体育学科ですかー。いいですね。運動できるんでしょうね。さかあがりなんて簡単でしょうね。」
ルヴァは自嘲気味にぶつぶつ言っている。
「私はできないんですよ。ずっと練習してるのに。」
「……」
ヴィクトールには、運動ができないという感覚が理解できない。
しかし、世間にはこんな人間もいるのだ。
驚きつつ、ヴィクトールはルヴァのひょろっとした身体を見下ろした。
「よしっ。」
「え?」
「俺が手伝おう。ルヴァ。逆上がりの特訓を、一緒にやろうじゃないか。」
「え、ええっ、でも、御迷惑じゃ…」
「いや、ちっとも。実は俺は、大学を出たら小学校の体育の先生になりたいんだ。だから、ちょっと早い教育実習だ。」
「先生…?へえ。いいですねー。」
ルヴァは素直に感心していた。それでヴィクトールは少し恥ずかしくなってしまう。青臭い夢だ。
「じゃ、お願いします。ヴィクトール先生。正直言って私、一人ではどうにもならなかったんですよー。」
そしてルヴァは、立ち上がってヴィクトールに手を差し出した。
「うむ。がんばろう。」
多少照れながら、ヴィクトールもルヴァの手を握った。誓いの握手。
「じゃ、まず鉄棒をにぎってみろ。」
「はい。」
「…ルヴァ。」
「はい?」
「鉄棒の持ち方には、二種類あるって知っているか?逆手と順手だ。」
「はあ。で、私の持ち方はどっちですか?」
「それはサル手だ!危険だからその握り方はやめろ。」
「え、そ、そうなんですかー?」
これは思った以上に大変そうだ。
ヴィクトールはそう思いながらも、なぜか少しだけワクワクしていた。
「いいか?親指は前に出して、鉄棒を包むようにしてしっかり持つ。これが順手。手首をひっくり返したこれが逆手。」
ルヴァの手を取ってその持ち方を教える。
「しかしお前、手首細いな。」
「え?」
ヴィクトールは思わずルヴァの手を取って、ジャージの袖をズルリとまくった。
「え、あの…」
二の腕までむき出しにされてルヴァは戸惑う。
「こんなんで、自分の身体ささえられるのか?そうだ。ルヴァ、懸垂はできるか?」
「懸垂?わかりません。」
「やってみろ。」
ルヴァはヴィクトールの言うままに、高い方の鉄棒に移動してぶら下がる。
「そこで腕を使って自分の身体を持ち上げてみろ。」
「はい。んっ…」
「……」
「まだか?」
「やっ…て…るんですけど…あっ。」
「あぶない。」
手が滑って鉄棒から落ちそうになったルヴァを、ヴィクトールが支える。
「全然できてないじゃないか。ルヴァ、さかあがりのまえにまず懸垂だ。懸垂ができないならさかあがりはできないぞ。」
「えっ、そうですか。」
「いいか、そうだな。せめて腕を直角にして10秒。それができるようになるまではさかあがりの練習はするな。危険だ。」
「はい…」
「そんな不安そうな顔しなくていい。」
「わ。」
ヴィクトールが大きな手をルヴァの頭にぽん、と乗せる。
「大丈夫だ。お前はできるようになる。」
「そうでしょうか?」
そしてルヴァは、ほやんと笑った。
◆
そして一週間後。
「ろーく、しーち、はーち。」
「くっ…」
「きゅーーーーーーーーう。」
「ううっ。」
「じゅー。よし、いいぞ。ルヴァ。」
「はあ。」
鉄棒にぶら下がっていたルヴァは、ヴィクトールの言葉を聞いて、とん、と地面に降りる。
「よし、懸垂で十秒。よくやったな。じゃ、今日から逆上がりの練習に移ろう。」
「はいー。あ、まってください。そのまえに、ちょっと熱くなっちゃって。ぬいでいいですか?」
「ああ。かまわん。」
ルヴァはぼってりした小豆色のジャージの上を脱いだ。
まっ白な半袖のシャツ姿が、ヴィクトールには眩しく思えた。
「ほう。」
「え?」
「少し、筋肉ついてきたんじゃないか?」
ヴィクトールがルヴァの二の腕に触れる。
「あの…」
「あ、すまん。」
困ってるルヴァに、ヴィクトールはあわてて手を放す。
「じゃ、やってみますから見ててくださいねー。」
ルヴァは鉄棒にしがみつく。
つい一週間前までは頼りなかった背中。
いまは、少しだけ自信ありげにすっと伸ばされている。
「あひゃっ。」
「ルヴァ!」
前言撤回。まだまだ道のりは長そうだ。
地面に叩き付けられそうになったルヴァを、ヴィクトールはとっさに支える。
しかし受け身をとれないルヴァに引きずられてそのまま無様に地面に崩れ落ちてしまった。
ルヴァの半袖のシャツを掴んでささえようとしたので、ズボンからシャツの裾がはみ出して、腹がむきだしになっていた。
「ごっ、ごめんなさいー。」
ルヴァはあわてて起き上がり、ヴィクトールに手を差し出した。
「え?あ、ああ。」
ヴィクトールはなぜかぼうっとしてしまっていたが、ハッと我に返りルヴァの差し出された手を断った。
「お前さんに手伝って貰ったらまた共倒れだ。」
「うっ…」
「じゃ、やってみようか。ルヴァ。逆上がりは逆手に持つ方がいい。地面を蹴って足を振り上げ、その勢いで回る。」
言いながらヴィクトールは実際に手本を見せる。
「なるほど。」
ルヴァは感心して頷いてみせるが、実際にやってみると上手く行かない。
「もう一回やってみろ。今度は俺が補助してやる。」
「はい。」
ルヴァが地面を蹴り上げる。
ヴィクトールはその足を持ってルヴァの身体をくるりと回した。
「わ。まわりました。」
ルヴァはビックリしながら鉄棒から降りる。
「当たり前だろ。逆上がりなんだから。」
「そ、そうですね…じゃ、もう一回やります。」
「よし。何回かやって感覚を身につけよう。」
「はいー。」
ルヴァはもう一度鉄棒の前に立つ。
◆
それからまた数日。
ルヴァとヴィクトールの特訓は続いた。
不器用で頭でっかちなルヴァだったが、ようやく逆上がりのコツを身につけてきたみたいだ。
もう、ほとんどヴィクトールの補助が無くても回ることができるようになっていた。
「じゃ、ルヴァ。今日こそは一人で回れるようにしような。」
そういいながら、ヴィクトールの胸は痛む。
「はい。」
しかしそれに気付かないルヴァは素直に鉄棒に向かう。
ここでルヴァがさかあがりをできてしまったら、この二人きりの早朝特訓も終わり。
そう思うと、ルヴァがいつまでもさかあがりができなければいい、とさえ思ってしまう。
だけど、一日も早くルヴァを喜ばせてやりたいという気持ちもあって。
分裂して、困惑した自分を持てあましながら、ヴィクトールはルヴァを見守った。
ルヴァが鉄棒を握り、思いっきり地面を蹴り上げる。
「あっ…」
あっけなく、ルヴァはくるりと一回転してから、とん、と地面に降りた。
「やったじゃないか、ルヴァ。」
「え……」
ルヴァはぼうっとしている。
もっと喜んでもいいのに。
やりました!って言いながら抱きついてくれてもかまわないのに。
最近の子は感動が薄いのか、などとヴィクトールは物足りなく思ったが、それも見当違いである。
「あー、まわったんですねー。」
ルヴァは鉄棒を握りしめたままつぶやく。
興奮のあまり、頬の辺りが少し紅潮している。
その顔を見て、ヴィクトールは気付く。ルヴァは本当に嬉しいのだろう。
いつもにこにこしているようで、その笑顔は少し薄い印象だった。
今の、ただ何もせず立っているだけのルヴァの方が、よっぽど感情豊かに見える。
「ぐうぜんじゃないですかねー。もう一度やりますねー。」
そう言って、ルヴァは逆上がりをはじめた。
力強く地面を蹴り、すばやく腕で身体を持ち上げ、腰を鉄棒に引き寄せる。これはずっと特訓していた懸垂の成果。
鉄棒に近付いたところで足を畳んで、くるんとちいさな半径で回る。
理想的と言ってもいいくらい、綺麗なフォームだ。
ヴィクトールは心の中で合格と叫んだ。
そしてまた、心のどこかで、これで自分もお払い箱、とささやく声も聞こえた。
「ヴィクトール。」
地面に降りたルヴァはヴィクトールに駆け寄る。
「ああ。おめでとう。」
「あなたのおかげです。」
「いや、ルヴァががんばったからだ。」
青春ドラマのようなセリフを素面で吐いて、二人はしばし見つめあう。
「ヴィクトール、私、あなたに言いたいことが。」
「え?」
突然のルヴァの言葉に、ヴィクトールは戸惑う。
ルヴァは落ち着きなくうろうろと目をおよがせていたが、やがて決心して口を開く。
「私、言わないでおこうと思ったんです。でも、胸の中にしまっておくのは辛くて、伝えたいのにあなたが迷惑だと思うんじゃないか、って、ずっと言えなくて。」
「ルヴァ…」
ヴィクトールの心臓が跳ね上がる。
「でも、怖いんです。こんなことを言ってしまったら、あなたに嫌われてしまうんじゃないかって。言わない方が、いいんじゃないかって。」
そしてルヴァは顔をさらに赤らめた。
「でも、もう逆上がりができてしまったら、私はあなたに会えなくなってしまいます。だから、その前に言いたくて、私、決めたんです。逆上がりができたらあなたに告白しようって。」
「えっ…!?」
これはもしかして…恋の告白?
そこでようやく、ヴィクトールは自分自身の気持ちに気付いた。
自分もいつの間にか、ルヴァを好きになってしまっていたこと。
この時間が、ずっとずっと続けばいいと思っていたこと。
「今日、逆上がりできたから、あのー、言ってもいいですか?」
困ったような顔をして真っ赤なルヴァが、上目遣いにヴィクトールを見上げる。
「あっ…」
ヴィクトールは思わずのどを鳴らす。
もういい、それ以上言わなくてもいい。
俺も、同じ気持ちだったんだ、ルヴァ。
そう言って抱きしめてやろう。
心では思うのだけど、身体はがちがちに緊張して、膝はがくがく震えて、喉は枯れあがってかすれた声しか出ないに違いない。
ヴィクトールは不甲斐ない自分が少し情けなくなった。
「ヴィクトール。あのー…」
「あ、ああ…」
「私、実は…」
「ルヴァ…」
「えっと、言っちゃいますね。実は私…前回りもできないんですっ…」
「……は?」
「呆れますよねー。逆上がりどころか、前回りもできないんですよー。こんな運動音痴じゃ、ヴィクトールだって私のこと、嫌いになっちゃいますよね。」
「い、いやそんなことは。」
とりあえず話の展開についていけないながらも、ヴィクトールは答えた。
「本当ですか?」
ルヴァの顔がぱあっと明るくなった。
「じゃ、お願いします。引き続き、前回りの特訓もおねがいできませんかー?あ、あなたが御迷惑でなかったらの話なんですけれど。」
「いや、迷惑だなんて。全然。ははは。」
「本当ですかー?あー、よかった。勇気を出して告白した甲斐がありました。」
「こ、告白って…」
「え?どうかしました?」
額から脂汗を滲ませるヴィクトールに、ルヴァは小首をかしげた。
「い、いや、なんでも。」
自分の甘美な勘違いが恥ずかしくなる。
そして気付いてしまったこの気持ちを、いまさらどこへ持っていけばよいのか。
さまざまな思いが錯綜するが、
「とりあえず、ひとつだけ言わせてくれ。逆上がりより前回りの特訓の方が、先だろ。普通。」
と、せめてものツッコミを入れるしか、ヴィクトールができることはないのだ。